牧野肇税理士事務所
半生記
60歳からの税理士開業(大学の同窓会誌に寄稿したものです)
税理士開業

 私は、平成16年12月、それまで足掛け12年挑戦してきた税理士試験にようやく合格し、平成17年5月、60歳にして税理士登録し、開業税理士として新たな道の入り口に立ちました。
 実は、税理士は副業で本業は従業員25名の中小製造業の社員です。
 現在創立6期目ですが、創業以来赤字の連続で債務超過の状態です。私は2期目の終わりに入社し、以来経理、総務その他事務部門一切を担当する管理部長として気の休まることのない日々を過ごしてきました。

会社生活のスタート
 私は卒業後日本鋼管(その後NKK、現JFE)に入社しました。父が戦時中に爆撃で殉職し、当時の上司が役員として在職中だったのを頼っての縁故入社でした。成績が悪かったので縁故でなければ入社できなかったと思います。
 入社後は人事労務部門に7年間在籍しました。1年目に部長の意向で若手社員が夜勤の実態を見る機会を与えられました。真夜中に黙々と働く人たちを見て、この人たちが工場を、会社を、そして日本を支えているのだと感銘を受けたことを昨日のことのように覚えています。
 昭和50年が私にとって第一の転機でした。資金部に異動になり、お金の世界に転進したのです。いきなり10桁以上の数字を毎日扱う部署に来て、しかも資金運用表(現在のキャッシュフロー計算書に近い)などという見たことも聞いたこともないものを作らされて往生しました。
 7年間在籍後、経理部に異動して予算管理の仕事を5年間やりました。この間業績は悪化し、銀行管理になるのではといったことを真剣に議論した時代でした。

転機
 昭和62年、予算管理部門の筆頭課長として抜本的体質改善を訴えた予算編成を終えたところで新設子会社の経理室長として出向することを命ぜられました。これが第二の転機であり、その後の会社人生を決め、税理士に挑戦するきっかけとなった、私にとって極めて重要な人事異動だったのです。当時はもちろんそんなことは頭になく、新しい会社の経理を任されるということで不安もありましたがやる気をもって新会社に赴きました。
 この会社アドケムコ(現JFEケミカル)は、製鉄の副産物コールタールから高付加価値の新製品を作るということで設立されたもので、製鉄所構内に工場を持ち、従業員は全員がNKK出向者、原料を始め電気、ガス、水道などすべてNKKから購入する形でした。
 この購入契約交渉は予想外のものでした。本社では業績悪化を受けて新規事業の立ち上げが最重要課題と認識されていましたが、工場の現場では事業部が違うこともあり、全く外部の業者に対するのと同じ硬直的な対応でただただ唖然とするばかりでした。
 このときNKKの経営体質に救いがたいものを感じ、いずれ潰れることがあるかもしれないと思いました。中途採用した女性が税理士を目指して勉強しているのを知り、万一の時に資格があれば再就職も有利になると思い、まず通信教育で簿記の勉強を始めました。税理士への道を開いてくれた恩人であるこの女性には足を向けて寝られません。
 4年後、NKK経理部に新設された企業グループ経理室の室長として本社に復帰しました。次第にグループ経営の重要性が認識されはじめた時期であり、グループ会社での経験を持った私に室長の白羽の矢が立ったものでしょう。
 ここでは、「管理から支援へ」をキャッチフレーズに、一律の対応から個々の会社の置かれた状況をきちんと把握してそれぞれに合った対応をすることを社内の関連部署に訴えました。しかし、純粋培養で外の世界を知らないエリート集団には理解ができなかったように思います。

受験生活
 企業グループ経理室長時代は、予算や決算といった繁忙期もなく、税理士の勉強をするには絶好の機会でした。週2回、6時20分から9時10分まで大原簿記学校に通って勉強しました。流石に専門学校だけあってその指導、教材は税理士試験合格に的を絞った極めて合理的なものでした。通勤の行き帰りには単語カードに覚えることを書いて暗記に努めました。土日には自習室へ通って勉強しました。こんなに勉強したのは浪人時代以来です。
 努力の甲斐あって1年目に財務諸表論、2年目に簿記論と続けて合格しました。税理士試験は積み上げ式で何年掛かっても合格科目が5科目になればよいのです。3年目は所得税法を勉強しました。ここからが中高年にとっては高いハードルです。
 税法の試験は、税額の計算問題と理論問題が50点ずつで合計60点取ると合格となるのです。計算は事例問題で税法の規定を適用して納付税額を計算するもので、実務での経験が多少は有利に働くかもしれません。しかし、理論問題は理論とは名ばかりで税法の規定を暗記してひたすら書く問題と言ったほうが近いものです。当然暗記力と書くスピードがものをいうわけで、国税庁の合格者分析でも明らかなとおり若い女性が圧倒的に有利です。つまり、中高年にとっては記憶力の壁が立ちはだかっているのです。
 さて、所得税の1年目は比較的順調に勉強が進んだのですが、5、6月の追い込み期に体調を崩したこともあり不合格となりました。所得税2年目は一度学習したことの積み上げであったので順調に進み、体調にも気を配って気を緩めることなく試験に臨み合格することができました。
 ところでこの2年目の平成7年にいわゆる片道切符で子会社の鋼管ドラム(現JFEコンテイナー)に出向を命じられました。この会社はドラム缶の製造会社ですが、新規事業として低公害の天然ガス自動車向け高圧ボンベを手がけ、近い将来の東証二部上場を狙っていました。この上場計画を具体化し実現させる事が私に与えられた使命でした。
 まず社内の意思統一、NKKの全面的バックアップの確保等のいわばインフラ整備に約一年を費やし、その後幹事証券の山一證券と太田昭和監査法人の支援を得ながら、社内体制の整備、情報システムの全面刷新、金融機関等への出資要請、工場用地の買取とNKKの第三者割当増資、天然ガス容器事業のPR、これらの集大成である有価証券届出書Uの部の作成といくら時間があっても足りない状況に税理士試験の受験は当面中断することにしました。
 そんな中、平成9年11月、突然山一證券の自主廃業が報じられました。すぐに幹事証券を日興證券に変更して準備作業は影響を受けることなく進みましたが肝心の業績が悪化し始め、翌年には準備作業の中断を余儀なくされました。
 平成10年3月、規定により53歳でNKKを協議退職し、完全に鋼管ドラムの人間になりました。と、思う間もなく翌11年2月にNKKへの復帰を命じられました。
 もうNKKには不要だとして退職させておきながら今度は復帰しろと言う身勝手さに怒り心頭に発しましたが、鋼管ドラムに迷惑をかけてはと考えて了承しました。
 NKKの亜鉛めっき鋼板とカラー鋼板の工場を分社するのでその準備と設立後の新会社NKK鋼板(現JFE鋼板)のNo.2をやれということでした。
 復帰してすぐの関係者の会議で私はNKKに対して怒り狂っていることを話し、それだけになんとしても利益の出る会社にすることを誓いました。
 その日から私は辞表を懐に─これは気持ちではなく実際に書いたものを背広の内ポケットに入れていました─準備期間と設立1期目を駆け抜けました。そして1期目から利益を計上することができました。そうしてみると、私にはすることがなくなりました。もともと1工場であり、社長はNKKの役員経験者、営業と技術の責任者は経験豊かな人材が担っている、部下もNKKのしっかりした社員ばかり、利益の出る構造ができてしまえば本当に何もやることがないのです。

転職
 そこで、NKKから離れることを模索し始めましたが、ちょうどその時、入社5、6年目の頃の上司だった人が兄上の興した会社の社長になっており、誘いを受けました。半年ほど考え、友人にも相談して行くことを決めました。
 一方、税理士試験の方は、上場準備が中断したのを受け、消費税に挑戦を始めました。この科目はボリュームが少なく、実務をやっていないと分かりにくい点も多いので私にとっては有利な科目です。1年で合格できると予想しました。
 ところが勉強を始めて2ヶ月目に青天の霹靂、NKKへの復帰が待っていたのです。
 新会社の準備も激務でしたが、新会社の本社が川崎のはずれ扇島の入り口で、終業後すぐに会社を出ても授業に間に合わないのです。それでも日曜日の授業を選択したりして頑張りましたが不合格になりました。2年目ははじめから日曜日のコースにし土日は完全に勉強漬け、2回目の有利さも加わってめでたく合格となりました。
 NKK鋼板を退職する年から法人税法に取り掛かったのですが、聞きしに勝る難関でした。まず、暗記すべき条文のボリュームが半端ではありません。計算の規定ももちろん多く、しかも思想がないのです。税は取りやすいところから取るという政策がよく分かります。政策はよく分かっても思想のないものを覚えるのは容易なことではありません。単純暗記しか手がないからです。
 1年目は受験の時に不合格を覚悟する状態で全く歯が立たず、2年目は1年目よりは覚えていましたが合格できる気がしないまま受験し不合格となりました。
 3年目に入る時に、このままではいつまでたっても合格できない可能性があると考え、科目を変えることを検討しました。結論は「国税徴収法をやる」でした。国徴は、主に差し押さえとか納税猶予とかを扱う法律で基本的に計算問題がないこと、また、条文数が少なく暗記ボリュームも少ないうえ、法律そのものが極めて体系的で他の税法のようなご都合主義ではないので頭に入りやすいのです。
 ただ、これまで勉強してきた積み重ねもあるので、法人税と国徴の二兎を追ってみることにしました。結果は一兎をも得ずとなったのですが翌年合格する基礎となりました。

2度目の青天の霹靂
 ここでまた勤務先の話になりますが、2度目の青天の霹靂に襲われました。
 NKK鋼板を退職し、全く分野の違うビルメンテナンスの老舗に転職したわけですが、社長は昔の上司であり誘ってくれたのですから、前任の取締役同様70歳くらいまでの雇用が確保できたと思っていたのです。転職してすぐ臨時総会で取締役にも選任されました。
 それが2年目のある日突然辞めろと言われました。全く身に覚えのないことが理由としてあげられました。社内の誰かが讒言したのでしょうがそれを直ちに信じ込んだ社長の気持ちが今でも理解できません。80歳を過ぎていた社長のボケが原因かとも思いますが、不徳の致すところとしか言いようがありません。
 突然のことなので取締役辞任の代わりに次の総会までの半年間の給与保障を要求して受け入れられ、再就職先を探し始めました。
 友人知人に頼んだり、職安や複数のインターネット転職サイトに登録したりと活動しましたが、57歳の失業者を採用しようという奇特なところは滅多にありません。50歳のところに大きな壁があり、その上55歳のところにも壁があるというのが実感です。
 ようやく失業4ヶ月目にして現在の会社に拾われたのですが、すぐにも上場するということだったのが冒頭に書いたとおり業績は低迷し展望が開けない状況です。

合格そして開業
 ここまで様々なことがありましたが、ついに合格発表の日を迎えました。事前の感触で合格はほぼ間違いないと思っていましたが、官報に名前を見つけたときはさすがに喜びがこみ上げてきました。その後登録手続を済ませ平成17年5月晴れて税理士となりました。
 まだ駆け出しですし、会社の状況から辞めるわけにもいかず、フルタイムで勤務して夜と土日で税理士業務をこなす毎日です。
 社会人になってからの40年程を振り返ってみたわけですが、人生は分からないものだとつくづく思います。特に50歳台で5つもの会社を転々とすることになろうとは思ってもみなかったことです。そして転職の際に、課長時代に出向して学んだこと、その後の会社生活の中で学んだことが役立ちました。その当時は自覚していませんでしたが。
 また、継続は力なりという格言の重みを噛み締めています。我ながらよくぞ12年の受験生活を続けられたと思います。
 初心を忘れずということもありますが、余り肩肘を張らず、学校に通うことが半ば趣味的になっていたことも続けられた一因だと思っています。
 拙文を読んでもし自分も税理士に挑戦してみようかと思う方があれば、ぜひ記憶力が衰えない早いうちに始められることをお勧めします。

追記
 上の文章は8月末に書き終えたものです。
 実は書き終えたとたんに解雇予告があり、10月からグループ内の、半導体業界に特化した小さな商社に勤務しています。
 転職に際し、懇意にしていただいている人生の先輩から「武士の家計簿」(新潮新書)を薦められて読んでみました。幕末から明治にかけての激動期を経理屋の腕一本で生き抜き、周りの武士たちが没落してゆく中、海軍に奉職して豊かな暮らしを手に入れた旧加賀藩士一族の実録です。何か力づけられた思いです。皆様にもぜひご一読をお勧めします。

(昭和43年経済学科 潟Iー・エヌ・シー管理部勤務、牧野肇税理士事務所)
  「経友」2007年2月号原稿 2006年10月脱稿